齋藤秀雄先生のプロフィール

1902年5月23日、東京生まれ。暁星中学時代よりマンドリンに親しみ、また、宮内省雅楽部の楽人に楽器の手ほどきを受けるなど、自然に音楽の道に入っていく。この頃にはすでに、ドイツで音楽を学ぶことを心に決めていたが、本格的にチェロの勉強をはじめたのは20歳頃からである。

1922年、音楽留学の準備として通っていた上智大学を中途退学し、念願のドイツへと渡る。ベルリンに半年滞在後、ライプチヒへ移り、王立音楽学校でクレンゲル教授に師事。1927年に帰国後、新交響楽団に主席チェロ奏者として迎えられるが、再度ドイツ留学の旅へと出る。その時、ベルリン高等音楽院で出会ったチェリスト、フォイマンの人間味あふれる指導は、後の齋藤の教育者としてのあり方に大きな影響を与えた。

帰国後の1932年より、新交響楽団の首席チェリストの位置に復帰し、日本での活動を始める。同団は指導者と楽員との不和によりさまざまな組織改革や再契約を繰り返すが、その間、常任指揮者に就任したヨーゼフ・ローゼンシュトックにも多くを学ぶ。

1941年、新交響楽団を退団してから、松竹交響楽団をはじめとするさまざまなオーケストラに指導者として就任するものの、音楽に対する情熱ゆえの厳しい指導はなかなか理解されず、渾沌の時代を過ごす。第二次大戦後の1946年、共に室内楽の活動をしていたフルーティストの森正、ヴァイオリニストの巌本真理らと、東京室内楽協会を結成し、活動を続ける。また、齋藤を中心に定期的に開催されていた三越室内楽鑑賞会は、多くの音楽家や観衆に大きな希望を与えた。

この頃より、齋藤は日本におけるクラシック音楽の発展のためには、なにより早期教育の環境づくりが先決であると考えるようになり、1948年、市ケ谷に「子供のための音楽教室」をスタートさせる。しかしそこでの活動を進める上で生まれたさまざまな問題や課題から、音楽高校の必要性を痛感するようになった齋藤は、高校開設へと果敢に動き出す。その夢は多くの人々に拡がり、1952年、桐朋女子高等学校音楽科開設(男女共学)という実を結ぶこととなる。その後、桐朋学園短期大学音楽科の開設をはじめ、相愛学園での指導など、日本の若き音楽家の育成に生涯をかけた。

1972年、72歳で惜しまれつつ他界するが、一流の指揮者として、またチェリストとして音楽を愛する多くの人の心に刻まれている。また、労をいとまない情熱的な指導は、世界の一線で活躍する弟子たちへと脈々と受け継がれている。


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