プロフィール

1.世界のオザワ、中国に生まれる

ozawa-photo6.jpg1935年(昭和10年)、中国のシャンヤン(旧・奉天)で、小澤家4人兄弟の3番目として生まれる。一家は翌1936年、北京に引っ越す。父、小澤開作は、歯科医院を開業していたが、政治運動にものめり込んでいた。「征爾」は、親しくしていた板垣征四郎(陸軍大将、のちの陸相)と石原莞爾(関東軍参謀)から一文字ずつもらって父がつけた名前。母、さくらは仙台出身。クリスチャンで、子供たちに、小さい頃から賛美歌を歌わせていた。日本や中国の政治関係者たちや教会の人たちがよく遊びに来るにぎやかな家だったという。

2.音楽とスポーツに明け暮れた少年時代

1941年(昭和16年)、日中関係の悪化や子供たちの教育のことを考え、日本に引き揚げ、東京都立川市に住む。10歳ぐらいから、一番上の兄に、兄が通っていた学校のピアノでピアノを習い始め、熱中する。翌年、小学校の学芸会で「エリーゼのために」を初演奏。本格的にピアノを学ばせようと、一家は苦しい経済状態の中、親戚からピアノを譲ってもらう。3日かけて、父と長男、次男で横浜からリヤカーに乗せ、運んできたエピソードはよく知られている。

1948年(昭和23年)、成城学園中学校に入学。毎日、ラグビーとピアノの練習に明け暮れる。また成城の旧制OBによる男性合唱団に最年少で中学3年まで続け、その後中学生の「賛美歌グループ」を結成し、指揮をする。日比谷公会堂での日響(今のN響)のコンサートで、レオニード・クロイツァーがピアノを弾きながら「皇帝」を指揮したのを見て、指揮者になる決心をし、遠い親戚にあたる齋藤秀雄氏をたずねる。1952年(昭和27年)、創立されたばかりの桐朋学園女子高校付属音楽家(男女共学)の指揮科一期生となる。1955年(昭和30年)、桐朋学園短大に入学。厳しい齋藤先生の下で学び、卒業後も弟子として行動を共にする。

3.「音楽武者修行」の旅に

minatokobe1.png1950年(昭和34年)2月1日、本場のヨーロッパで指揮を学びたいといろいろ策を練り、ついに富士重工からラビットスクーターを借りて、貨物船で神戸港からマルセーユに向かう。2ヶ月ほどして、ようやく到着。その後借りたスクーターに乗りスクーターの宣伝をしながら、2週間ほどでパリに着く。(この頃は海外に行くのは非常にお金がかかることで、まだ一般的ではなかった。)

同年9月、たまたま知ったフランス・ブザンソンでのブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。1960年(昭和44年)5月、ベルリンでカラヤンの弟子を選ぶコンクールに優勝。ヘルベルト・フォン・カラヤンに師事する。同年7月指揮者シャルル・ミュンシュに会うため、アメリカに渡り、バークシャー(現タングルウッド)音楽祭に参加、音楽祭の指揮コンクールで第一位となる。またクーセヴィツキー大賞も受賞する。レナード・バーンスタインの目にとまり、1961/62年のシーズンは、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の副指揮者を務める。ニューヨーク・フィルの日本公演にともなって、帰国する。

4.再び海外に渡り、目覚しい活躍を

1962年(昭和37年)1月、サンフランシスコ交響楽団の指揮をし、大成功。同年6月NHK交響楽団の指揮者に就任。12月に同楽団の団員からついていけないとボイコットされる(いわゆるN響事件)。翌年、小澤征爾を応援する井上靖、石原慎太郎、大江健三郎など多くの文化人の主催による「小澤征爾の音楽を聞く会」で指揮。大好評だったが、ニューヨークに再び渡る。シカゴ交響楽団のラヴィニア音楽祭で、急病の指揮者にかわって指揮をする。そこで、シカゴ響のディレクター、ラドキン氏に「この音楽祭をきみにあげよう」と言われ、翌1964年から5年にわたってラヴィニア音楽祭の音楽監督を務める。

ozawa-photo9.jpgまたニューヨーク・フィルの指揮をしたり、ロンドン交響楽団の指揮をしてイギリスでデビューしたり、トロント交響楽団の音楽監督に就任したり、ベルリン・フィルの定期公演を指揮したり、と、海外のオーケストラ界で、なくてはならない存在となっていく。1968年(昭和43年)、ヴェラと結婚。1969年(昭和44年)、カラヤンに勧められ、ザルツブルグ音楽祭でモーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」を指揮してオペラ・デビュー。1970年(昭和45年)、タングルウッド音楽祭の音楽監督に就任。同年11月、父・開作、死去。1971年(昭和46年)、長女・征良(せいら)誕生。1972年(昭和47年)、新日本フィルハーモニー交響楽団が結成され、主席指揮者となる。1974年(昭和49年)、長男・征悦(ゆきよし)誕生。同年9月、恩師齋藤秀雄先生、死去(73歳)。

5.ボストン交響楽団の音楽監督に

kusevituki-hall (2).jpg1964年(昭和39年)から4年間、ボストン交響楽団が主体となったタングルウッド音楽祭で監督を務めていたが、1973年(昭和48年)、38歳でボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任。2002年(平成12年)に退任するまでの29年間の活躍には、さらにめざましいものがある。

就任後の9月、ベルリオーズ「ファウストの劫罰」で音楽監督として初めて指揮をとり、その2週間後にはカーネギーホールに登場。また同曲でレコーディングしたアルバムがグラミー賞に推薦される。1974年から始まったボストン響のテレビ・コンサート・シリーズ「イーヴニング・アット・シンフォニー」が、1976年のエミー賞を受賞。

1975年(昭和50年)には小澤/ボストン響コンビで初めてのアメリカ・ツアー、翌年にはヨーロッパ公演、1978年は日本公演を果たし、世界各地で高い評価を得る。1978年(昭和53年)、中国政府の公式招待により北京中央楽団と一週間にわたって活動したのをきっかけに、1年後に再びボストン響を率いて訪中し、演奏活動に加え、中国音楽人の指導・育成などといった文化交流にも貢献した。

また1979年(昭和54年)には、現地の主要な音楽祭のみに出演するというユニークな欧州公演を実現、1981年(昭和56年)には同団創立100周年を記念して、アメリカ大陸横断演奏旅行(米国14都市)を果たした。同年秋には、日本、フランス、ドイツ、オーストラリア、イギリスを回る世界旅行を成功させるなど、その自由な活動スタイルも注目された。

音楽監督を2002年で退くまでの約30年、地元ファンからの人気、評価の高さは歴史に残るものであり、1985年(昭和60年)、小澤征爾50歳の誕生日を祝ってのコンサートには、17,734人という記録的な聴衆を集めた。またマサチューセッツ州のデュカキス知事は「9月1日をオザワ・デイにする」と発表。その人気の高さを知ることができる。

6.クラシックの本場、ヨーロッパでも高い評価

ボストン交響楽団の音楽監督をつとめる間も、もちろん、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などを定期的に指揮し、非常に高い評価を受けている。また、オペラも上演、ミラノ・スカラ座、パリ・オペラ座などで指揮をする。

operahouse.jpgそして、ついに2002年(平成14年)1月にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートに東洋人指揮者として初めて指揮台に立ち、世界65カ国に中継されている。また、パリ・オペラ座、ザルツブルグ、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立劇場といったオペラ界での活躍が高く評価され、2002年のシーズンからウィーン国立歌劇場の音楽監督を務める。これは、2010年までの契約となっている。2002年9月、母・さくら死去(94歳)。


7.日本での活躍 〜 若き音楽家を育成するために

ozawa-photo10.jpg早くから海外で実力を認められてきた小澤征爾であるが、日本でもさまざまな活動をしている。1984年(昭和59年)、恩師である故齋藤秀雄の10周忌にあたり、同じく齋藤の弟子である指揮者、秋山和慶とともに呼びかけ、桐朋メモリアル・オーケストラ演奏会を開催。世界各地で活躍する齋藤先生の教え子たちが集まって演奏した。このオーケストラが、サイトウ・キネン・オーケストラとなり、1987年、1989年にヨーロッパ・ツアーを行い、大絶賛される。

その後1992年(平成4年)より、サイトウ・キネン・フェスティバル松本を毎年夏、長野県松本市で開催。約3週間のフェスティバルでは、オーケストラや弦楽四重奏などのコンサートはもちろん、オペラの上演、学生音楽家の教育などさまざまなことを試みている。この音楽祭は、今や、国際的音楽祭として知られている。

1972年(昭和47年)創立された新日本フィルハーモニー交響楽団では、主席指揮者となり、現在も桂冠名誉指揮者として定期的に活動している。また1990年(平成2年)に結成された水戸室内管弦楽団には、音楽顧問として就任。メンバーの選出から定期公演に至るまで積極的な関わりを持っている。

ozawaphoto3.jpgその他、2000年(平成12年)より、オペラを通じて若手音楽家の育成をするために小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトを主催したり、2005年(平成17年)に誕生したばかりの音楽祭東京のオペラの森の音楽監督に就任するなど、小澤の挑戦はとどまるところを知らない。近年は特に若い音楽家の教育に力を注ぎ、日本はもとより、ウィーンや中国でも、子供たちや若手音楽家に教える機会を多く作るよう務めている。

世界を見てきた小澤征爾だからこそ、いま、教育者として自分のなかにあるすべての才能、経験、情熱を次の世代に伝えるべく全力を尽くしている。その思いは、若き音楽家たちの心に、確実に届いているようだ。

<これまで受賞した賞など>

1998年 仏政府よりフランス芸術文化勲章シュヴァリエ章を授与
2000年 米国ハーバード大学名誉博士号
2001年10月 フランス芸術アカデミー外国人会員に選出される
     11月 日本で文化功労者に選ばれる
2002年 オーストリア勲一等十字勲章
2003年 毎日芸術賞、サントリー音楽賞を受賞
2004年3月 フランス・ソルボンヌ大学(パリ第四大学)より、名誉博士号


*2000年、サイトウ・キネン・オーケストラとライブ・レコーディングをした
     マーラーの交響曲第2番《復活》が、日本レコード・アカデミー賞を受賞
*2002年のニューイヤーコンサートを収録したCDは、第16回日本ゴールド
ディスク大賞クラシック・オブ・ザ・イヤーを受賞、さらに
    本国オーストリアでもプラチナディスク賞を受賞


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